歴史と文化 2026/11/01 掲載
日根荘遺跡 中世の荘園の景色が残る史跡
日根荘は鎌倉時代に九条家が立てた荘園です。寺社やため池、水路など16か所が国の史跡「日根荘遺跡」に指定され、そのうち1か所は泉佐野市と熊取町にまたがっています。
日根荘は、現在の泉佐野市域にあった九条家領の荘園です。泉佐野市の説明では、天福2(1234)年に五摂家の一つである九条家が立荘し、鎌倉時代から戦国時代まで続きました。荘園は本来、都の貴族や寺社が地方の土地を所有する仕組みですが、日根荘では領主側の文書が宮内庁に伝わっています。『九条家文書』、日根野村を描いた絵図、領主の日記『政基公旅引付』がそれで、荘園の暮らしを細かく追える例になっています。
この荘園の経営で大きな課題だったのは、未開の土地をどう田畑にするかでした。日本遺産のストーリーによると、中心の事業は井川と呼ばれる水路の整備です。泉佐野市は、井川が樫井川から取水し、土丸の取水口から十二谷池まで約2.75kmを流れ、現在も主要な灌漑水路だと説明しています。十二谷池では嘉吉元(1441)年に下池が築かれ、日根野村・井原村・壇波羅密寺村が共同で使う契約の資料が残っています。
絵図は二枚あります。日本遺産の解説では、1309年に九条家が土地調査に着手した際に作られたとされ、水路やため池、寺社が詳しく描かれています。泉佐野市によれば、描かれた日根神社は絵図に「大井関大明神」、野々宮跡は「丹生大明神」、総福寺は「禅林寺」にあたります。慈眼院は「無辺光院」の後身とする説があります。700年ほど前の絵と今の景色を重ねられるところが、この史跡の特色です。
国史跡としての指定は段階的に進みました。文化遺産オンラインには、日根荘遺跡の指定年月日が1998年12月8日と記されています。泉佐野市の説明では、平成10(1998)年に寺社やため池、水路など14か所が指定され、2005年に九条政基が滞在した長福寺跡が加わりました。2013年10月17日には土丸・雨山城跡が追加され、指定地は計16か所です。日根野地区に9か所、大木地区に6か所、土丸と熊取町にまたがる城跡が1か所という内訳です。
熊取町が関わるのは、この16か所目の土丸・雨山城跡です。熊取町の説明では、雨山は熊取町大字野田にあり、山頂に本丸跡や千畳敷と呼ばれる平坦地、井戸があります。雨山城跡は平成8(1996)年に町の史跡になっていました。泉佐野市の城ノ山山頂にある土丸城跡まで調べると、遺構や土器、瓦が連続して見つかり、二つの山城が一つの大きな山城だったと分かって、名称が統一されました。調査は2009年度から両市町の教育委員会が合同で進めています。
政基の滞在は、荘園の後半期を知る手がかりです。九条政基は文亀元(1501)年に下向し、入山田村の長福寺に入って、永正元(1504)年に京へ帰るまでの約4年間を過ごしました。『政基公旅引付』には、旱魃のとき火走神社で雨乞いの能が奉納されたことなどが書かれています。長福寺は慶長16(1611)年の資料を最後に名が見えなくなり、2002・2003年度の発掘調査で、瓦や建物跡、園池、井戸、石組みの暗渠水路が出て寺院跡と確かめられました。
要点
- 日根荘は天福2(1234)年に九条家が立荘した荘園(泉佐野市の説明)
- 国史跡「日根荘遺跡」は計16か所。1998年に14か所、2005年に長福寺跡、2013年10月17日に土丸・雨山城跡を追加
- 文化遺産オンラインの指定年月日は1998年12月8日、所在地は泉佐野市大木・日根野
- 土丸・雨山城跡は泉佐野市と熊取町にまたがる。2009年度から両教育委員会が合同調査
- 九条政基は1501年から約4年、入山田村の長福寺に滞在し『政基公旅引付』を残した
出典:泉佐野市 日根荘遺跡とは/熊取町 熊取町内の指定文化財の紹介(雨山城跡・土丸・雨山城跡)/文化庁 文化遺産オンライン 日根荘遺跡/文化庁 日本遺産ポータルサイト 旅引付と二枚の絵図が伝えるまち 中世日根荘の風景